合気道の行(ぎょう)・・・改訂

開祖植芝翁の言葉がまとめて掲載された「合気神髄」(著者は吉祥丸氏)によれば、合気道は世界平和の実現と宇宙の真理に合一するための行であるという。突拍子もないことではあるが、荒唐無稽と一蹴せずに、正面から捉えてみたいと思う。

開祖は古神道になじみ深く大本教に帰依していたことは周知の事実である。そして古神道の最重要経典といっても過言でないのが、古事記である。ゆえに、この古事記からくるインスピレーションを体現するのが古神道的武術の一面でもあると思う。古事記が神々の営みを示すものであるのならば、そして神々を我が肉体(魄=魂の入れ物)に宿すことが古神道の究極の目的ならば、古事記の神事の再現は、神々に近づく行となるであろう。

現在は科学や物理が万国共通語のようになり、身体感覚という個人的なものが、次々と「翻訳」されている。筋肉の緊張や伸展そしてさらには、脳内物質の分泌にいたるまで解剖学的に感覚が解体され、翻訳されている。翻訳書はとても参考になるものである。再現性が高い翻訳であるが、ともすれば翻訳の解説に陥ってしまい、本来の身体感覚の追求、そしてその先にあるものついての探求が薄れてしまっているとも思う。

ところで、開祖の生きた時代においては、科学や物理は万国共通語であっただろうか?開祖は勉強家であり、その類の蔵書も数多くあったようであるが、それは純粋に知識として吸収したのであり、身体感覚をアウトプットする言語としては採用しなかったのではないか、理由としては、当時科学や物理が開祖の身体感覚を翻訳するには熟度がなかったこと、さらには、科学や物理で解説することの弊害があること、そこまで考えが及んでいたのかもしれない。

開祖が選んだのは、自身が深く帰依する宗教の言葉であり、用語であった。特に大本教における古事記の解釈、特に神々の名前に付与された意味、である。
開祖の合気神髄においては、アメノミナカヌシ(天之御中主神)や天の浮橋という言葉が頻出する。

wikipediaから古事記の国生みを引用する。
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古事記 [編集]

古事記』によれば、大八島は次のように生まれた。

伊邪那岐(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)の二柱の神は、別天津神(ことあまつがみ)たちに漂っていた大地を完成させるよう命じられる。別天津神たちは天沼矛(あめのぬぼこ)を二神に与えた。伊邪那岐・伊邪那美は天浮橋(あめのうきはし)に立ち、天沼矛で渾沌とした大地をかき混ぜる。このとき、矛から滴り落ちたものが積もって淤能碁呂島(おのごろじま)となった[1]

二神は淤能碁呂島に降り、結婚する[2]。『古事記』から引用すると、

伊邪那岐

「汝身者如何成也」
「汝(いまし)が身(み)はいかに成れる」
「あなたの体はどのようにできていますか」
伊邪那美

「妾身層層鑄成 然未成處有一處在」
「わが身はなりなりて成り合はざる処一処あり」
「私の体には、成長して、成長していないところ(女陰のことを示す)が1ヶ所あります」
伊邪那岐

「吾身亦層層鑄也 尚有凸餘處一 故以此吾身之餘處 刺塞汝身之未成處 為完美態而生國土 奈何」
「わが身はなりなりて成り余れる処一処あり。故(かれ)このわが身の成り余れる処を以て、汝が身の成り合はざる処を刺し塞ぎて、国土(くに)を生み成さんと以為(おも)ふ。生むこといかん。」
「私の体には、成長して、成長し過ぎたところ(男根のことを示す)が1ヶ所あります。そこで、この私の成長し過ぎたところで、あなたの成長していないところを刺して塞いで、国土を生みたいと思います。生むのはどうですか。」

こうして、二神は性交する。しかし、女性である伊邪那美の方から男性の伊邪那岐を誘ったために、ちゃんとした子供が生まれなかった。このため、二神は、最初に産まれた子供である水蛭子(ひるこ)を葦舟に乗せて流してしまった。次にアハシマが産まれた。水蛭子とアハシマは、伊邪那岐・伊邪那美の子供の内に数えない[2]

二神は別天津神のもとに赴き、なぜちゃんとした子供が生まれないのかを聞いた。すると、占いによって、女から誘うのがよくなかったとされた。そのため、二神は淤能碁呂島に戻り、今度は男性の伊邪那岐から誘って再び性交する[3]
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天之御中主神と天沼矛(あめのぬぼこ)は、背を貫く仮想の柱であり、身体意識では「頭の先から尻まで一本の鉄杭が入っていることを意識する」とか、「百会にフックがついて、天井から吊り下げられている感じ」とか言われるものに近いのではなかろうか?

天の浮橋とは不安定な地面にしっかりと立つことであるが、それ以上に「居つかないこと」を示しているのではなかろうか。

あめのぬぼこでかき混ぜる、またイザナギ イザナミによる国生みは、回転である。特に国生みにおいては、柱を回るのである。これを身体感覚に置き換えれば、中心軸をつくり、そこを固定して転換(回転)することである。軸の養成と回転感覚による練磨を説いたものである。

またイザナギとイザナミの問答には、合気において重要な「密着」について書かれている。

開祖は、合気道を通じて、古事記の世界を体現しようとしたのである。合気道は国生みであると開祖は言う。合気道を通じて国生みを行い、理想の社会、世界を築いていこうではないかと述べられている。古事記の清らかな高天原が理想郷とするのならば、その文脈において開祖の言葉は、矛盾がないのである。

合気道の行により、高天原の神々が宿るにふさわしい宮(=魄)づくり を行う。やがては魂=神々が宿る(国生み)のである。宮作りにおいては、アメノミナカヌシとタカミムスビ、カミムスビが開祖によってピックアップされているが、このうちタカミムスビとカミムスビについては、私はまだ直感するところがない。男と女、顕と幽、陰と陽を表しているようであるが、よくわからない。この二柱については、古事記においてもその後名前を変え、登場することもあり、もう少し読み込んでいく必要があるようだ。

合気会関係者でなくとも、開祖の言葉には深い合気道の秘奥が隠されていると直感し、開祖が日本の宝=神典とした「古事記」を今一度、読み直してみるのも面白い。こうした読み解きもまた、合気道の楽しみである。

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